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福岡高等裁判所 昭和35年(ネ)706号 判決

控訴人 山田一

被控訴人 原口鉱業株式会社

主文

本件控訴を棄却する。

控訴費用は控訴人の負担とする。

事実

控訴代理人は、「原判決を取消す。被控訴人に対し金一〇〇万円及びこれに対する昭和三三年一月一二日以降完済に至るまで年五分の割合による金員を支払え。訴訟費用は第一、二審共被控訴人の負担とする」との判決並に仮執行の宣言を求め、被控訴代理人は、「主文第一項同旨」の判決を求めた。

控訴代理人はその請求原因として、控訴人は昭和三一年五月二五日から被控訴会社の経営に係る上嘉穂炭坑に坑内作業員として雇傭されているものであるが、昭和三二年三月三〇日午前九時三〇分頃坑口から約一七〇米の地点にある坑内詰所において監督者である係長訴外下瀬富重から坑内夫訴外豊田洋祐を通じ同所から約八〇米離れた右零片採炭現場に置いてあつた破損の電気オーガーのプラグを取つて来るように命ぜられ、右現場に赴く途中右採炭現場昇口において坑内ガスを吸引し、一時人事不省に陥つたが、鉱員に救出され、同年七月一日まで諫山病院に入院加療した後引続き飯塚病院に入院して現在も治療中であるが、医師の診断によれば控訴人は両下肢筋不全麻痺並に右半身感覚鈍麻の症状であり、回復の見込なく労働能力も完全に喪失した。ところで右事故は被控訴会社の過失に起因して発生したものである。すなわち(一)事故発生現場附近は当時監督官庁から坑内保安のため石炭の採掘を禁止されていたに拘らず被控訴会社代表者は同所において採掘事業をなさしめたばかりでなく、鉱業権者が採掘事業を実施するには常に鉱業法その他の法規を遵守しかつ細心の注意を払うべき義務がある。殊に鉱業権者は(イ)地方通商産業局長の認可を得た施業案によらなければ鉱業を行なうことができない(ロ)ガス突出の防止につき必要な措置を構じなければならず(ハ)ガス蓄積のおそれが多い旧坑に五〇米以内近接して採掘するときは先進ボーリングその他適当な措置を構ずべきことは鉱業法鉱山保安法等に定めるところであるに拘らず被控訴会社代表者は右法令を全然無視し、施業案によらず又ガス蓄積のおそれが多い旧坑から五〇米以内の個所において先進ボーリングは勿論その他ガス突出防止に関して何等適切な措置を構ずることなく採掘の目的をもつて漫然発破をかけ近接の古洞から蓄積ガスの突出を来たさしめた為本件事故が発生したものであるから控訴人の負傷は被控訴会社代表者の過失に起因するものというべく、被控訴会社は右事故に因り控訴人の蒙つた損害を賠償すべき義務がある。(二)仮りにそうでないとしても控訴人の受けた右傷害は被控訴会社の被用者である坑内夫訴外豊田洋祐、一貫田某等が被控訴会社の事業執行につき加えたものである。すなわち、同訴外人等が本件採掘現場でなした発破作業により炭壁に発破穴ができ、これが近接の古洞に通じた為右古洞に充満していた炭酸ガスが坑内に突出したが、控訴人はこれを知らなかつた為発破実施の現場に置いてあつた故障の電気オーガーのプラグを修理すべく、同所に赴むかんとして多量の炭酸ガスを吸引し、その結果負傷した次第である。ところで、およそ石炭の採掘事業に従事する者は前掲の法令を遵守し、細心の注意を払つて古洞のガス突出を防止すべき義務があるのは当然であるのに同訴外人等はこれを怠りガス充満の古洞附近において慢然発破をかけ発破穴から古洞のガスを突出せしめ、突出後も何等の措置を構じなかつたのであるから同訴外人等に過失の責あるを免かれずしたがつて被控訴会社は使用者として本件事故に因り控訴人の蒙つた損害を賠償する義務があるものというに妨げない。そして本件事故に因り控訴人に生じた損害額は次のとおりである。すなわち、

(イ)  控訴人の年令は、右事故当時において満四五才と一ケ月一八日であつたから、本件事故が発生しなければ満五五才迄九年一〇月一二日間被控訴会社経営の上嘉穂炭坑で稼働し得るのに、右事故に因り労働能力を完全に喪失し稼働不能となつた。ところで本件事故当時における控訴人の平均賃金は一日金四〇九円五二銭であつたから、その割合で右稼動期間に得べかりし利益を算出し、これから一時に請求し得る金額を算出する為中間利息を控除すれば金八〇万円以上とある。

(ロ)  控訴人は元来身体強健であり、坑内作業員乃至採炭夫として一生を過す方針であり、現在妻と幼少の子供三名を抱え、控訴人の収入に因り生活を支えているものであるが、本件事故に因り控訴人は労働能力を喪失し、今後なお四、五年間は療養に専念しなければならないので精神上甚大な苦痛を蒙つた。よつて被控訴会社は控訴人に対し右苦痛を慰藉する為金二〇万円を支払うべき義務があるものというに妨げない。

そこで、控訴人は被控訴会社に対し、(イ)の内金八〇万円(ロ)の金二〇万円の合計金一〇〇万円およびこれに対する本件訴状送達の日の翌日たる昭和二三年一月一二日以降完済に至るまで年五分の割合による損害金の各支払を求める為本訴に及ぶと陳述した。

立証〈省略〉

被控訴代理人は、答弁として控訴人が被控訴会社の経営する上嘉穂炭坑に雇傭されていること、控訴人が業務に従事中負傷し控訴人主張の如く諫山病院および飯塚病院において入院治療したこと、控訴人が右負傷のため、両下肢筋不全麻痺並に右半身感覚鈍麻の症状となつたことは認めるが、その余の控訴人主張事実はすべて否認する。控訴人の職務は現場係助手として採炭夫を監督する係員の補助をするのがその任務である。被控訴会社としては係員に常時坑内ガスの検定をなさしめており、監督官庁による検査も毎月行われているが坑内にガスが充満したことはない。控訴人は青年時代に銀行員警察官として過した事実もあり炭坑従業員として一生を過す方針であるとは認められないから控訴人の本訴請求は失当である。と述べた。証拠〈省略〉

理由

控訴人が被控訴会社の経営に係る上嘉穂炭坑に雇傭せられ、業務に従事中負傷しその結果両下肢筋不全麻痺並に右半身感覚鈍麻の症状となつたことは当事者間に争がなく、右事実に成立に争のない甲第四号証の一同号証の五乃至七、一一、一五の各記載原審証人豊田洋祐、同渕上光明原審並に当審証人下瀬富重の各証言原審並に当審における控訴人本人尋問の結果右本人尋問の結果により成立を認むべき甲第一号証の記載を綜合すると、控訴人は被控訴会社の経営する上嘉穂炭坑に坑内現場係助手として雇傭せられ、坑内において発破作業補助等の業務に従事していたのであるが、昭和三二年三月三〇日午前九時頃、同炭坑天神坑右零片採炭現場において坑内夫訴外豊田洋祐が採炭の為控訴人の持参に係る火薬(ダイナマイト)を用いて発破をかけたところ、炭壁の崩壊に因りたまたま古洞に通じ右古洞に充満していた炭酸ガスが坑内に突出した。しかし控訴人はこれに気付かなかつた為同日午前九時三〇分頃発破に因る煙の薄れるのを待つて右の発破作業現場に在つた故障の電気オーガーのプラグを修理のため取りはずすべく待避場所を出て右現場昇口に差しかかつた際、炭酸ガスを多量に吸引したため、意識混濁して転落し、腰部等を打撲しガス吸引と打撲に因り両下肢筋不全麻痺並に右半身感覚鈍麻の傷害を蒙つた事実を認め得る。成立に争のない甲第四号証の二同号証の一〇の各記載中右認定に反する部分は信用し難く、他に右認定を左右するに足る証左はない。

よつて、先づ控訴人が右事故につき被控訴会社に不法行為上の責任ありとする点(一)につき検討する。石炭鉱業権者たる被控訴会社が本件炭坑において採掘事業を実施するにつき控訴人の主張する保安上の義務があることはいうまでもないが、被控訴会社が坑内保安上採掘を禁止されているに拘らず、これに違反し、また鉱山保安法規を無視し法令の要求する施業案によらず本件採掘現場がガス蓄積のおそれが多い旧坑より五〇米以内の個所であるのに先進ボーリングとの他ガス突出防止に関する措置を構ぜず慢然発破作業をなした、その控訴人主張事実についてはこれに副うかの如き当審証人須本健一の証言原審並に当審における控訴人本人尋問の結果は、後記認定の各証拠と対比して信用し難く、他にかかる主張事実を確認すべき証左はない。却つて成立に争のない甲第四号証の一、二同第七号証の一、二の各記載、原審証人豊田洋祐、同江里重治、当審証人森田小太郎(第一、二回)同梶原守原審並に当審証人下瀬富重の各証言当審における鑑定人梶原守の鑑定結果および前顕甲第一号証の記載を綜合すると、上嘉穂炭坑天神坑は保安炭として埋蔵量の六〇パーセント以上の採炭を禁止されていたが、それは炭層から地表までが浅く、かつ地上に家屋があるところから鉱害の発生を防止するためであつて坑内保安とは関係のない措置であつた。そして天神坑は抗内ガスが極めて少い為乙種炭坑に指定され、坑内におけるカンテラの使用も許されていたので、平素は坑内ガス検定の結果も零の状態であり、かつ鉱区内に古洞は存在しないものとされていたので同坑の保安係員も坑内ガスの発生については一般にその懸念なきものと考えていた。しかるに、昭和二六年九月三日同坑又卸左六片の採掘中出水災害が発生し、調査の結果、鉱区の北方および東方区域の鉱区線に隣接した古洞および侵掘により自鉱区内に入つた古洞の存在が確認されたので監督官庁の要請もあつて爾後古洞内の溜水が流出することに因る出水災害を防止する目的でその頃既存の施業案中に被控訴会社において右鉱区線より一〇米の保安炭壁を設けるほか各卸片磐の掘進に際しては、一〇米以上の先進ボーリングを行ない古洞の有無を調査し、安全性を確認の上作業することを義務づける項目を追加し、監督官庁の認可を得てこれに基き操業するに至つた。

しかし昭和二六年に発生した出水事故により確認された前記古洞は本件事故の発生した採掘現場とはその方向を異にし、右施業案添付の図面によるも、右採掘現場並にその附近は古洞よりの出水事故防止の為の先進ボーリング施行地域に包含されておらず、したがつて天神坑右零片の本件採掘現場附近には古洞は存在しないものと信じられており、かつ一般に出水事故防止の為の先進ボーリングはガス事故防止の目的をもつてする場合とは実施の方法、程度を異にし掘進に際し坑道の延長線に沿つてする外必要があればその他の方向に対してすれば足るものであつて、採掘の段階においてまでこれを実施する必要がなかつた為、仮りに被控訴会社において前記追加施業案どおり天神坑において先進ボーリングを実施したとしてもこれによつては、本件事故の一原因となつた古洞の存在を発見することは先ず不可能とみられる関係にあつたばかりでなく、被控訴会社は右施業案に基いて現実に先進ボーリングを施行したが、これを発見するに至らず、本件事故は前記のとおり坑内夫豊田洋祐が本件採炭現場において発破作業を行つた際炭壁の崩壊に因り従来その存在を予想しなかつた古洞に通じた為偶然に生じた不運かつ不幸な事故であるというのほかはないことを認め得る。その他被控訴会社において相当の注意をすれば右古洞の存在を確知し得たとの事実を認むべき立証はないから、該古洞に因るガス突出防止につき被控訴会社に控訴人の主張する過失があつた事実は結局これを否定するのほかはない。

次に控訴人主張の(二)の点につき審究するに控訴人は本件事故は、右の採掘現場において被控訴会社の被用者である坑内夫豊田洋祐、一貫田某等が発破の前後においてガス事故を防止すべき業務上の注意義務を怠つた為生じたものである、と主張するけれども、かかる事実を認むべき確証はない。却つて前段認定の事実によれば、右発破作業前同人等に控訴人主張の注意義務違反を肯定することはできず同人等において事前に前記ガス突出をきたした古洞の存在を覚知しなかつた点につき過失の責あり、ということはできないものと考える。なお、原審証人豊田洋祐の証言並に原審における控訴人本人尋問の結果によれば、坑内夫豊田洋祐は本件採炭現場で発破作業の為の火薬(ダイナマイト)に点火した後危険を避けて同僚の一貫田某と共に近くに待避し、食事をした後発破に因る煙の薄れるのを待つて再び発破個所に赴いたところ、昇口のあたりに右古洞より突出したガスを吸引し、うずくまつている控訴人を発見して始めてガス突出事故を知つた事実を認め得るので、控訴人の右ガス吸引に因る傷害事故が豊田等の発破作業後の処置に遺憾の点があつた為生じたものとなすことはできない。これを要するに本件事故につき被控訴会社乃至その被用者に過失があつたとの控訴人の主張はいずれも理由なきに帰し、被控訴会社に不法行為の責任を問うことはできないものというのほかはないから、控訴人の本訴請求は他の争点を判断するまでもなく失当として排斥を免れない。よつてこれを棄却した原判決は相当であつて本件控訴は理由がないからこれを棄却すべく、控訴費用の負担について民事訴訟法第八九条第九五条本文を適用して主文のとおり判決する。

(裁判官 高次三吉 木本楢雄 松田冨士也)

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